大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和53年(オ)1144号 判決 1983年9月08日

上告人

高馬士郎

右訴訟代理人

川西讓

足立昌昭

外一九名

被上告人

関西電力株式会社

右代表者

小林庄一郎

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人川西讓、同足立昌昭、同垣添誠雄の上告理由について

原判決は、上告人が他の者らとともに就業時間外の昭和四四年一月一日未明に被上告会社の従業員社宅において本件ビラ約三五〇枚を配布したことにつき、右は被上告会社の就業規則に定める懲戒事由の一つである「その他特に不都合な行為があつたとき」にあたるものとして、被上告会社が上告人に対して右就業規則に定める六種の懲戒のうち最も軽い懲戒である譴責を課した旨の事実を適法に確定した上、右ビラの内容は大部分事実に基づかず、又は事実を誇張歪曲して被上告会社を非難攻撃し、全体としてこれを中傷誹謗するものであり、右ビラの配布により労働者の会社に対する不信感が醸成されて企業秩序を乱し、又はそのおそれがあつたもので、右ビラを配布することは右懲戒事由にあたり、これを理由として譴責を課したことは懲戒権者に認められる裁量権の範囲を超えるものとは認められないとしている。

よつて案ずるに、労働者は、労働契約を締結して雇用されることによつて、使用者に対して労務提供義務を負うとともに、企業秩序を遵守すべき義務を負い、使用者は、広く企業秩序を維持し、もつて企業の円滑な運営を図るために、その雇用する労働者の企業秩序違反行為を理由として、当該労働者に対し、一種の制裁罰である懲戒を課することができるものであるところ、右企業秩序は、通常、労働者の職場内又は職務遂行に関係のある行為を規制することにより維持しうるのであるが、職場外でされた職務遂行に関係のない労働者の行為であつても、企業の円滑な運営に支障を来すおそれがあるなど企業秩序に関係を有するものもあるのであるから、使用者は、企業秩序の維持確保のために、そのような行為をも規制の対象とし、これを理由として労働者に懲戒を課することも許されるのであり(最高裁昭和四五年(オ)第一一九六号同四九年二月二八日第一小法廷判決・民集二八巻一号六六頁参照)、右のような場合を除き、労働者は、その職場外における職務遂行に関係のない行為について、使用者による規制を受けるべきいわれはないものと解するのが相当である。

これを本件についてみるのに、右ビラの内容が大部分事実に基づかず、又は事実を誇張歪曲して被上告会社を非難攻撃し、全体としてこれを中傷誹謗するものであり、右ビラの配布により労働者の会社に対する不信感を醸成して企業秩序を乱し、又はそのおそれがあったものとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、是認することができないではなく、その過程に所論の違法があるものとすることはできない。そして、原審の右認定判断に基づき、上に述べ来つたところに照らせば、上告人による本件ビラの配布は、就業時間外に職場外である被上告会社の従業員社宅において職務遂行に関係なく行われたものではあるが、前記就業規則所定の懲戒事由にあたると解することができ、これを理由として上告人に対して懲戒として譴責を課したことは懲戒権者に認められる裁量権の範囲を超えるものとは認められないというべきであり、これと同旨の原審の判断は正当である。なお、所論違憲をいう点は、ひつきよう、上告人による右ビラ配布行為を理由として懲戒を課することに公序良俗違反の違法があるとして原判決の法令違背をいうに帰するところ、上告人の右ビラ配布行為が思想の表現の面を有するからといつて、これに対し懲戒を課することに公序良俗違反の違法があるということはできず、また、上告人による右行為をもつて労働組合の正当な行為とすることもできないというべきである。原判決に所論の違法はなく、論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審と異なる見解に立つて原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(藤﨑萬里 団藤重光 中村治朗 谷口正孝 和田誠一)

上告代理人川西讓、同足立昌昭、同垣添誠雄の上告理由

第一、一、原判決は憲法二八条、労働組合法七条の解釈適用を誤つている。

原判決は、

(イ) 労働者は使用者と労働契約を締結した以上、その付随的義務として企業の内外を問わず、広く使用者の利益を不当に侵害し又は侵害するおそれのある行為を差し控えるべき忠実義務を負うから、事実に基づかずして会社を非難攻撃することは慎むべきである。本件ビラは全体として会社を中傷誹謗するもので労働者として不都合な行為に該る。

(ロ) 組合員の組合活動が正当なものといい得るためには、それにつき組合の明示もしくは黙示の承認があり、または承認があるとみることが労働常識上是認され使用者にこれを受忍させることが労使対等の原則上妥当と認められることを要するところ、組合はビラの配布を認めていないから正当な組合活動とは認め得ない。したがつて、本件ビラ配布を理由に懲戒処分をしたことは不当労働行為とならないと判示している。

右判断は明らかに憲法二八条及び労組法七条の解釈適用を誤つているものである。

二、先ず憲法二八条は、団結権、団体交渉権、団体行動権の保障を宣言している。

この労働基本権の保障はいうまでもなく憲法二五条の生存権保障を基本理念とし、経済的弱者たる地位にある労働者に団結権等を保障することによつて労使の実質的平等対等の関係を確保せしめるものである。

右の団結権の荷い手は労働者である。労働組合は労働者の団結体にほかならず、人的結合そのものであつて、労働者の団結にこそ価値がある。従つて労働者の団結を志向する自発的活動こそ労働組合の母体であり、生命であつて、これが生存権の充足という団結目的に沿う限り、組合の機関活動に限らず労働者の自発的活動であつても広く憲法二八条の保障する団結活動であるといえる。

「労働者としての生活利益の擁護を直接、間接の目的とし、団体を志向する活動は憲法二八条労組法七条に保障する権利であつて、これに対する不利益取扱いは不当労働行為として禁止される」(籾井常喜 経営秩序と組合活動一〇七頁以下)

「組合活動は組合機関の活動あるいは機関の指令に基づく組合員の集団的な行動のみに限定すべきではない。個々の組合員またはグループによる組合もしくは組合員仲間のための活動であれば組合活動であるといつてもよい。組合というものは全体と部分との活動を統合しつつ活動する組織体であり、たとい部分の活動が全体として調和しないであつてもそれは組織の自律作用によつて矯正さるべく(団結自治)使用者の介入的な行為からは保衛されることが自主的団結の保障にほかならないからである」(沼田稲次郎・労働法五四頁)

三、原判決では組合員の活動が正当な組合活動と評価されるのは組合がその活動を承認した時に限るとするが右に述べた通り理論的にも実質的にも誤りである。

これでは労働組合が御用組合化している場合や、労組内部に対立する意見が併存するときには、きわめて不都合なことになる。

前者の場合には、組合の存立価値を失なうどころか、逆に組合が会社の不当労働行為を手助けし、積極的に推し進める役割りを果たすことを認めることになるし、後者の場合は組合の主導権を握つているグループが対立するグループを会社の不当労働行為にさらすことによつてこれを封じ込めることを可能ならしめるであろう。

現に関西電力では、昭和三八年頃までは電産の流れをくむ上告人らの反会社派のグループ(被上告人のいう日共系グループ)が労働組合の支配的な主導権を握っていたが、その後の会社の露骨な組合選挙の干渉をはじめとする組合へのさまざまな支配介入、差別などを基本とする労務政策等により会社派のグループ(三水、清志、清風の三派)が組合の主導権を握るに至つたのである。そしてその後は労使一体となつてビラ配布を禁止したり会社の反労働者的な労務政策を協力して推進したりすることにより、上告人らのグループを封じ込めてきたのである。

したがつて組合が承認していないことを理由に組合員の自発的な活動が不当労働行為としての救済を受けられないとするのであれば、労働組合の自主的、民主的な運営は損なわれ、労働組合は生き生きとした活力を失つてしまうであろう。勿論個々の組合員の活動が統制違反としての責任を追求されることもありうるが、それは組合の内部問題であつて、使用者の干渉を許すところではない。

「組合員が単独もしくは共同で団結目的の実現のために行ういわゆる自発的活動もこれ(組合活動)に含まれる……組合員が組合の統制に反して活動すれば統制違反の責任を問われることはいうまでもないが、そのことによつて、その行為が、対使用者との関係における対外的評価において、団結権活動たる性格を失うものではない」(本多他・不当労働行為論・共同研究労働法2・一四三頁・法律文化社刊)のである。

そして組合員個人の活動は、それが、組合員有志の形でなされようと、親睦会であろうと、政党員である一面を有しておろうと差異はない。

例えば、判例においても、「正当な組合活動がたまたま他面、(日本共産党)細胞活動としての性格をもつていたとしても、かような活動をとらえて解雇理由とすることは労組法七条の関係においては、正当な組合活動を理由とする解雇、すなわち不当労働行為に当ると解すべきである。」とされる(最判・昭三〇・一〇・四労民九・一一・一五三四)。

四、ところで、本件の場合、労働組合が昭和四九年九月にビラ配布が組合の統制を乱すものであるとの執行部見解を出し、更に本件ビラについても組織の破壊分裂をねらうものであり、かかる行為は許されないとの見解を述べているのは原判決の認定のとおりである。原判決はこの組合の見解を無批判に受け入れ、組合が認めていないから上告人のビラ配布は不当労働行為としての救済を受けないとしている。このような解釈は明らかに誤りであるが、仮に原裁判所のように統制違反の活動について労組法七条の保護を受けないという考えをとるにしても、その前提としてこの組合見解が、法規範全体に照らして正当性を持つものかどうか、実質的に統制違反になるのかどうかを検討しなければならないはずである。組合の見解が実質上違法なものであればそれに違反する個人の組合活動が非難される理由は全くない。

組合活動にとつて、ビラ配布は基礎的な活動である。組合がビラを配布することは勿論、組合員が組合の活動の報告をするビラを配布し、組合員の要求をまとめ、職場に論議をまきおこしていくのは当然の活動である。いわゆる会社派が主導権をとるまでは多数のビラが配布されていた。ところが、彼らが主導権をにぎるや組合員の自発的な活動をきらい、又上告人らを封じこめるため、組合は会社と気脈を通じて一切のビラの配布を禁止することにしたのである。

組合は「一方的なビラ配布によつて討論もなく、あやまつた観念を社宅組合員、家族に宣伝することは、明らかに組合機関を無視した非合法的手段であり、その内容如何にかかわらず許されるべきでない」(甲一八号証)というのであるが、これは会社の言分と全く同じである。

ビラの配布によつて、自分達の考えを知らせ、労働組合の中に討論をまきおこし、組合員の意識を高め団結を強化していく、それが本来の組合のあるべき姿であり、これを禁ずるのは組合の自殺行為である。

組合によるビラ配布の禁止は、団結活動に対する自己規制であり、組合員一人一人に保障された団結権に対する抑圧である。

このような誤つた組合見解を全く鵜呑みにした原判決は労働法や労働組合活動に対する無知、無理解を示す何物でもない。

五、憲法二八条の団結権保障は、労働者の生存権保障を具体的に果し得るような団結、団結行動の形成を積極的に保障した権利であり、これが使用者の権限、法益と直接抵触する場合には、使用者はそれを受忍することを義務づけられる。こゝでは、市民法の原理は修正されねばならず、原判決のいうような「ひろく使用者の利益を不当に侵害してはならないのは勿論、不当に侵害するおそれのある行為をも慎しむべき忠実義務を負う」というような考えは改められなければならない。憲法が、団結権を保障することにより労使の実質的対等平等を実現しようとするものである以上組合活動としてのビラが労働者の経済要求だけにとどまらず、会社の経営批判や労務政策批判、更には組合の執行部批判が含まれることは当然である。労働者の批判が会社の方針に反し、会社の気に入らないからといつて、それが処分の対象になるとすれば、組合活動など存在しようがないことは明らかである。又、労働者の配布したビラ内容を事後的に双方から提出された証拠により検討し、些細な証拠とのくいちがいをとらえて、その是非を論じるのは、現実離れした議論であり、組合活動としての言論活動の意義を理解しないものである。

「労働者が労働条件の維持向上、団結権、団体行動の確保強化に関係なくして単に使用者に対して個人的中傷をなすような場合は格別、使用者の経営管理の方針について批判の自由を有していることは、これまた自明の理であり利害の対立する労使の関係において、使用者にとつて好ましくないという理由のみで、使用者の経営管理方針に対する労働者の批判をたやすく煽動的な言動となし、他の従業員に悪影響を及ぼすものとみなす態度は、社会通念に照らし、たやすくこれを容認しがたい」(大阪地決昭二七・七・一七・近藤・前掲書一五九頁参照)のである。

六、本件ビラは、その配布の経緯、内容、労働組合の実情等からみて労働組合活動であることは明らかである。

(一) 本件ビラの内容は、安保改訂期を一年後にひかえた昭和四四年の元旦にあたり、一九七〇年が我国と労働者の生活にとつて重要な岐路であること、政府や自民党資本家達が民主的な権利を圧迫し、低賃金、労働条件の悪化をおしつけ、生活苦を進めていくだろうが、労働者はそれに対決し、平和や民主々義、生活向上、職場の民主化を要求し、斗つていかなければならず、今年はその出発点にしよう。関西電力では差別、村八分、低賃金、既得権の剥奪をしているが、これに負けずに皆で力を合わせ、会社のやり方を白日のもとに明らかにし、ひとつひとつなくしていこうというものである。

ビラの前半の三分の二は主として一九七〇年の歴史的意義について上告人らの考え方を述べたものであり、ビラの中段の記載は政府、自民党、資本家を一般的に批判し、労働者の意気を高めるための記載である。

これらは、いわば労働者をとりまく政治経済情勢について簡潔に述べたものである。

後段は関西電力の労務政策のひどさや労働条件の劣悪さの実情を自分らなりに評価し、抽象化、一般化した言葉で批判し、労働者の団結を呼びかけているものである。

右のビラの内容の一部は、安保問題にも触れているが、労働者の生活とのかかわりでのべているのであり、政治的活動というよりも明らかに組合活動としての評価を受けるものである。

本件ビラは一般的に組合の機関が発行しているビラと本質的に相違はなく、組合機関が発行してもちつとも奇異なものではない。

会社の労務政策についても勿論批判しているが、それは労働者に団結を呼びかけることによつてそのようなことを職場からなくしていくことを意図しているのであつて原判決のいうように「事実を歪曲して非難攻撃したもの」ではなく従業員に動揺を与え作業意欲を害し……ひいては控訴人会社の業務の運営を阻害する」「加害的意図」に出たものでないことは明らかである。

本件ビラは、その内容からしても明らかに組合活動としての評価を受けるものといえる。

(二) 本件ビラは、その発行の経緯、労働組合の実情からしても組合活動の評価を受ける。

(イ) 即ち、昭和三〇年代後半に至るまで、会社の労働組合活動に対する介入も少なく、組合役員の選出も比較的組合員全体の自由な意思を表わしていた。従つて、組合役員に会社派の者もおれば、反会社派もいるという状態であつた。むしろ、反会社派の方が多数であつた(このことは労働組合として正常なあり方である。対立関係にあるはずの会社側に近い組合役員などというのは背理である)。

そして、この反会社派の中心は、上告人を含むグループであつた。

ところが、昭和三八年ころから、会社は労働組合に対する支配介入を次第に強化し、労働組合の主流から反会社派を排除し、組合を会社のパートナーとするための労務政策を強行した。

そのために、会社は若年層対策、職制教育、特殊対策(共産主義的思想をもつ者を「特殊」あるいは「マル特」と呼び、それに対する特別の対策)を行い、反会社派活動家と一般従業員とをあらゆる面で隔離する方策をとつた。

この結果、労働組合は急速に会社派が握ることになつていき、不当にも反会社派は昭和四一年を最後に組合役員からは完全に排除されるに至つた。

(ロ) 上告人らは、組合役員から排除されたあとも役員選挙に立候補して、それまでの主張を一貫してきたが、選挙後も、時々の職場の労働条件の問題を中心に自分達の立場を訴え、組合員の理解と同調を得ると共に、労働組合自体の活動を職場から強化するため、甲第三七ないし四四号証の形でニュース、ビラを配布していつた。

他面、会社派は組合を完全に掌握するや、不当にも役員選挙期間中のビラ配布を禁止することにしてしまつたため、選挙期間外のニュースやビラ配布が選挙活動としてと極めて重要となった。

(ハ) そして、上告人らは右の如き一連のビラ、ニュース活動をふまえ、その一環として本件ビラを作成、配布したのである。

例えば、甲第三七号証では、「洗濯問題」その他の既得権のとり上げが、甲第三八号証では、「野球部の解散」及び賃金額の資料が、甲第三九号証では人事異動の問題及び他社の労働条件が、甲第四〇号証では電力会社の業績及び賞与の比較がそれぞれ、具体的事実や資料を付してとり上げられている。

また甲第四三号証では、「差別」の問題が具体的に指摘されている。

そして、甲第四一号証は、本件ビラの前年の新年にあたり、「職場に目をむけると反動的な労務管理体制によつて職場の内外にわたる監視を強め、徹底した反共攻撃でわずかな良心さえも許さないというおよそ人間性をじゆうりんした差別政策をもつて労働者と労働組合を完全に会社のいいなりにし、かくて職場はまさに「ドレイ工場化」されようとしています。……どんな攻撃にも断固として斗い民主的権利を守り労働組合の強化と職場の明ろう化をかちとる年にしたいと決意しております。みなさんの大きな御支援をおねがいします」と述べて、本件ビラと同じく、新年の訴えと決意の表明としているのである。

このように本件ビラは、まさにこれらと一体をなすものであり、甲第四四号証は一九六九年一月一五日発行であるから、本件ビラの約二週間後のものであるが、この内容も本件ビラの記載を具体化したものであり、上告人らの一貫した主張としてなされたものである。

(二) 上告人らのビラ配布に対し、会社がこれを嫌悪し何とかやめさせようとしたが、労働組合もまた会社と同調し、さまざまな妨害をした。

労働組合のビラ配布の禁止の見解が組合活動にとつて自殺行為であり許されないものであることは既に述べたが、かれらは上告人らのビラの配布をはじめとする自発的な組合活動を禁止する一方では自分達にとつて都合のよい活動には積極的に援助を与えているのである。

即ち、関西電力の労働組合の中には上告人ら反会社派のグループとこれに対立する会社派の三水、清志、清風の三派が存在していたが昭和四一年一二月にこの三派が大同団結し、「尼二会」を発足させた。

この尼二会は「共産党の排除」と「正しい組合づくり」を標榜し、職場の内外において組合役員の選挙活動をはじめさまざまな活動をしてきた。

尼二会そのものは親睦団体であるとしても、その活動の一部は明らかに組合活動としての評価を受けるものである。(尼二会の活動は、会社の積極的な援助を受け、組合の御用化の目的で行われているので、その面で、別の評価―会社による支配介入という評価を受けるであろうが別問題として)

ところが、尼二会の活動に対しては、会社も組合も積極的に会場の提供や文化活動の援助などを与え、企業の内外において自由に且つ公然と活動することを認めているのである。

例えば、尼二会発行の「尼二会とは」と称するビラ(甲第八号証)は、尼二発電所だけでなく他の発電所に、しかも就業時間中に配布することが認められているのである。

尼二会の活動が労働組合活動としての評価を受けるものであることとの対照比較においても、上告人らのビラ配布は当然正当な組合活動とされなければならない。

七、(一) 本件ビラ配布行為が、正当な組合活動でないとする理由として、原判決は、組合の承認のほかに「ビラの発行者を秘匿し、しかも深夜人目にふれないように配布するというような配布の態様等も併せ考える」ことを掲げている。

右に掲げる理由は、本件ビラ配布を組合活動でないとするための、ためにする理由づけであり、全く理由にならない。

(二) とりわけ「深夜人目にふれないように配布」したと認定するのは、会社の言い分をそのまゝ認めるもので説得力のないものである。会社内部で配布すれば施設管理権と牴触すると言い、就業時間中に配布すれば労務指揮権に牴触すると言い、それではと会社の施設外で、しかも就業時間をさけて夜中に配布すると、今度は秘かに配布したから悪質だというのは、無理難題というものである。

本件ビラは新年の挨拶であるから、元旦の未明に配布したというだけのことであり、そのことを取り上げ正当な組合活動でないという理由づけとするのは余りにもお粗末といわざるをえない。

(三) 次にビラ発行者名が明らかにされていない点である。

確かに発行者名が明示されている方がより適切であるとは一応いえるであろう。しかし、ヒラ配布の背景、これに対する会社や組合の対応によつて評価はおのずと変らざるをえないだろう。

先ず発行者名を明示していると否にかかわらず関電に働く労働者にとつてどのようなグループが発行したものであるかは一目瞭然であつたということである。このことは会社側の証人である富嶋の証言(乙三二号証)に明らかにされている。従つて発行者が不明というのは単なる口実にすぎない。本件ビラが無署名であるのは、発行者を明らかにするまでもなく、労働者にとつて誰が発行しているのか明らかであるので、十分目的を達することができるということと、今一つの理由はビラ配布に対し会社が処分をちらつかせながらこれを徹底的に禁圧するという態度に出ていたからである。

会社は憲法や労組法に保障する言論や組合活動の権利を否定し一切のビラ配布を禁止し、上告人ら反会社派の労働組合員を徹底的に差別し、監視し、孤立化させる労務政策をとり、一方労働組合の役選にさまざまな形で介入し、労働組合を丸がかえにする方針をとつていた。

又、尼二会を組織させ労働者の自主的活動の体裁をとりながら上告人らに対する攻撃を強めてきていた。このような中で上告人らは企業内において自由に、又公然と活動することがきわめて困難な実情におかれていたのであるが、上告人らは自分達の考えを労働者に訴え、会社の不当なやり方を糾弾し、団結の強化を訴えたのが一連のビラである。上告人らは会社の不当な攻撃をできるだけ避けるためやむをえず無署名でビラを配布したものであり、無署名であることは会社の憲法に違反する違法不当なやり方に原因があるのであつて、それを棚上げして上告人らに責任を追求するのは筋違いというものである。

右のような情況の中でのビラ配布であるから、無署名であることをもつて正当な組合活動ではないとし不当労働行為の救済からはずすのは明らかな誤りである。

第二、原判決は憲法二一条の解釈適用を誤つている。

原判決は「憲法二一条の保障する言論その他の表現の自由は民主政治の基礎をなす基本的権利であつて、みだりに制限すべきものでないことはいうまでもない」と述べ、企業内においても憲法二一条の表現の自由の保障は適用されることを前提としている。

この判断そのものは、きわめて正当である。しかるに原判決は「表現の自由といえども、それが社会生活における規律を乱すものであるときは、右行為に対して制裁を課することは社会秩序を維持する必要上やむを得ないところである」と述べ、続いて「企業と労働契約を結んだものは職場の規律を守り、誠実に労務を提供すべき契約上の義務を負うものであり、もし、本件のように事実に基づかずあるいは殊更に事実を誇張歪曲して企業を中傷誹謗するビラを作成し、配布し得るものとすれば、これによつて従業員の企業に対する不信感を醸成し、ひいては企業の秩序を乱すおそれがあるから、企業においてかかるビラ配布行為に対して制裁を課することは合理的理由がある」という。

右の裁判所の考え方は、口先では表現の自由を保障すると言いながら、それがどう意味を持つものかを全く理解しないものである。

原判決では、表現の自由の制約の原理として「社会生活における規律」というようなきわめてあいまいな概念を持ち出しており、学問的な成果やこれまでの判例のつみ重ねの中で見ても、きわだつて特異なものといえる。

表現の自由を保障するという以上、その制約には合理的な必要最少限度の制約でなければならないであろう。

そもそも労使関係は、労働力の取引を目的とし、それに必要な限りで労働者を拘束することが認められる人為的結合関係である。したがつて労働者は職場から離れ、就業時間という時間的拘束から離脱すれば、完全に自己本来の市民生活の場に戻るというのが原則である。使用者は、労働者が市民的自由と権利を享受することに対し不当な干渉や拘束はできない。

原判決のように、一旦雇傭契約を結んだら一切会社への批判を許さないとするかの如き人格的忠誠を要求するのは、前近代的な発想であり、近代的な労使関係にあつては、会社から拘束を受けるといつても、それは、せいぜい信義則上のものにすぎない。

したがつて、労働者の職場外における、しかも就業時間外の表現活動に対しては、それが具体的に企業の利益を不当に侵害する明白かつ現在の危険が生じる場合にのみ、規制しうるものと考えなければならない。

原判決のいう「従業員の企業に対する不信感を醸成し、ひいては企業の秩序を乱すおそれがある」というのでは、全く無内容なものといえる。

又、「事実に基づかずあるいは殊更に事実を誇張して……」というのは、事実認定そのものも誤りであるが、理論としてもおかしい。

表現の自由の保障とは、立場によつていろいろな物の見方、考え方が存在するということを前提とし、それらが自由に表明されることが保障されるのであつて、企業の立場に立つて物事を見、それが事実に基づかないとか誇張歪曲とか言つてこれを処分するのは結局のところ憲法二一条に違反するものである。

第三、労働契約についての法令の解釈適用の誤り

(一) 原判決は「労働者は使用者と労働契約を締結するに際しては、使用者に対して労働を提供することを約するほかに、黙示的に使用者に対して、使用者の利益を不当に侵害しないように行為することをも約するものというべきであるから労働契約を締結した以上、その付随的義務として企業の内外を問わず、ひろく使用者の利益を不当に侵害してはならないのは勿論、不当に侵害するおそれのある行為をも慎むべき忠実義務を負うものと解すべきである」として、勤務時間外になされた本件ビラ配布も懲戒処分の対象となりうるものと判旨した(原判決二七丁)。

(二) しかし、右判旨は、労働契約の内容について解釈を誤つたものであり、それが原判決に影響を及ぼすこと明らかである。

① 先ず、労働契約に基き労働関係において生じる労使間の指揮、命令の関係はあくまで近代法の理念、論理に反するようなものではありえず、全人格的支配服従関係は法の容認するところではない。

富士重工事件の最高裁判決(昭五二・一二・一三)も当然のことながら労働者が、企業の一般的支配に服するものということができないことを明言している。

ところで、労使の間に指揮命令の関係は労働契約という「媒介」なしには存在しえないものであり、従つて労働契約の内容である労務の提供を離れては成立しえないものである。

そして、労務の提供は、使用者が労働者を労働契約に基き拘束しうるいわゆる拘束時間内ないしは、労務提供場所内(職場内)でしか問題となりえない。

従つて、就業規則は、就業時間内ないしは職場内での労働者の行為に対してしかこれを適用しえないものといわざるをえない。

にもかかわらず、原判決が、労働者は「企業の内外を問わず、ひろく使用者の利益を不当に侵害してはならない義務」を負うものとしたのは、労働契約の解釈を誤つたものというべきである。

② ここで、仮に、原判決のいう如く、就業時間外で、職場外での行為につき就業規則を適用しうるとしても、その根拠はあくまで、労働契約が継続的契約関係であつて、そこには一定の信頼関係が前提とされることに求めるほかない。

とすれば、この場合、就業規則を適用しうるにしても、右の信頼関係を破壊するものに限り可能ということになる。

ところで、労使の関係は、本来的対抗関係である側面を強くもつている。これは、憲法が団結権、団体交渉権、争議権を法認し、労働組合法が、不当労働行為を禁止し、労働基準法が種々の労働者保護規定をもうけていることから明らかな様に、法自体も、この対抗関係を当然の前提としているのである。

即ち、法は労使が本来、対等、平等ではなく、経済的強者と経済的弱者の関係にあることを前提としており、従つて、労働契約もまたそのような関係にある労働者と使用者との継続的契約であるのである。

それ故、先に述べた「信頼関係」も契約法一般に通ずるそれ(対等の私人間の契約における信頼関係)ではなく、対抗関係(その典型が争議における斗争関係)の中での信頼関係ともいうべきものであるから、それが破壊されたか否かは極めて厳格に解されねばならない。

殊に、本件の如く、労働者が会社の労務政策を言論でもつて批判するという場合には、それが、信頼関係を破壊するものか否かの判断は、右の意味において、一層、厳格でなければならない。(同じく信頼関係が問題となる賃貸借契約において、借家人が家主の悪口を言つたとしても、それにより信頼関係が破壊されたと判断するものはいない)。

にもかかわらず、原判決は、「使用者の利益を不当に侵害してはならない義務」あるいは「侵害するおそれのある行為を慎むべき忠実義務」という無定量の義務(他面、余りにも抽象的、一般的であるだけに、それだけでは全く無内容とさえいえる義務)、しかも、「使用者の利益の侵害」という如く、労働契約を「使用者の利益」の側面でしか見ない余りにも片面的、一方的にすぎる義務を作り上げているが、これは労働契約の解釈を誤つているといわねばならず、前述した「信頼関係の破壊」の有無を基準とすべき観点からも、明白な誤りというべきである。

(三) なお付言するに、原判決のいう忠実義務は、おそらくドイツにおける忠実義務(Treupflicht)の内容と一致するものと思われる。

しかし、ドイツにおける忠実義務は、使用者の労働者に対する保護義務(Frsorgepflicht)と一体として労働関係を人格的共同体とみるところから生れた概念である。

この共同体概念は、労使間における対立の側面及び債権契約的側面を捨象してしまうものであつて、わが国の労働契約の法的解釈として、とりえないことは、いうまでもなく明らかである。即ち、わが国では一般にこのような考え方は否定されている。

しかも、ドイツにおける忠実義務は逆の保護義務と一体としてのみ意味をもつ概念であるにもかかわらず、わが国でこれをもち出す者は、原判決の如く、労働者の使用者に対する一方的、片面的義務としてのみとりあげ、いかにも俗耳に入りやすい常識的用い方を意識的になしている。

これは、前述の如く、労働関係を人格的共同体とみるというわが国では否定されている考え方を正面にすえることができないためのごまかしである。

労使関係は対立の契機を含む矛盾的結合関係であるというべきであるから、忠実義務なる観念を容れる余地は理論的にありえない。

結局、労使間には憲法の労働基本権、労組法、労基法により法認された労働法理念により規制された信頼関係(矛盾的結合関係における信頼関係)のみが問題となるのである。

第四、就業規則の解釈、適用の誤りと理由齟齬

(一) 原判決は「本件ビラの記載はその大部分は事実に基づかず、あるいは事実を殊更誇張、歪曲したところの不実の記載である。そして、とくに同ビラの第三節を通読すれば、同ビラが全体として控訴会社を中傷誹謗していることを認めるに十分である」とし、更に「本件ビラ配布行為は公益性公共性を有する電気事業に携わる労働者としての節度を越えるものであり、従業員の会社に対する不信感を醸成し、企業秩序を乱し、または乱すおそれがあつたもので、殊に前記の本件ビラ配布に至つた経緯に照せばその情状において決して悪質でないとはいえないから、就業規則第七八条第五号にいう「特に不都合な行為」に該る」と判旨した。

これは、要するに

(イ) ビラの記載内容は全体として会社を中傷誹謗するものである。

(ロ) 右ビラ配布は電気事業労働者としての節度を超える。

(ハ) 他の従業員の会社に対する不信感を醸成し、企業秩序を乱し、または乱すおそれがあつた。

ということを本件処分有効の理由としたものであるが、右判決は、すべて、前記就業規則の解釈、適用を誤つたものであり、それが判決に影響を及ぼすことが明らかである。

(二)① 先ず、本件ビラの記載内容について、原判決がこれを「中傷誹謗」とする理由として、「会社が反共宣伝のみを、また組合が共産分子の排斥のみを一九七〇年のテーマにしたように読み取れ」ること、被控訴人の職場内での孤立が会社の意図によることを断定するに足りる確たる証拠がないこと、控訴会社の給与水準がその余の電力会社に比し劣つていたと断定することができないこと、既得権の剥奪ではなく変更にすぎないこと、事実に基づかず、確たる証拠もなしに会社を非難攻撃していることが判示されている。

② しかし、右判断は、言論活動として労働者(組合、組合員、労働者一般)が用いるビラ配布活動について、その基本的な評価の方法を誤つている。

一般にビラ配布行為の評価をなすためには、

(イ) ビラがいかなる意図ないし目的で作成、配布されたものか

(ロ) ビラ内容の一言一句をこと細かにせんさくするのでなく、ビラの全体的基調からみて配布者の意見、主張がどこにあるのか(ビラは事実の伝達のみを目的とすることはなく、必ず、一定の立場からする意見、主張の伝達を目的とするものである)

(ハ) ビラの内容が一定の事実についての評価を伝達せんとするものである場合はかかかる評価を正当であると信ずべき事情にあつたか否か

(ニ) 配布者が企業組織内のいかなる地位にある者か(職制機構上、企業の政策を部下に伝達、指導すべき立場にあるか、あるいは、上司の伝達、指導を受ける立場にあるか)、換言すれば、配布者が組合員資格を有すべき範囲の者か、あるいは管理監督者として、会社と対抗関係にあるとはいえない者か

等々の事情を考慮してビラ記載及びその配布行為の総体的判断がなされねばならない。

③ 本件ビラは、日米安保条約改訂を一年後にひかえた昭和四四年元旦にあたり、一九七〇年が安保による日米軍事同盟を存続させるか、安保をなくし、独立、民主、平和、中立繁栄の道を選ぶのかの選択の年であり、私達の生活の選択の年であり、私達の生活を守るわかれ道であること、政府や自民党あるいはそのスポンサーである資本家達は、我国を戦争の道に向かわせ、その中で金儲けを企み、労働者を苦しめるだろうが、労働者はそれに対決し、真の繁栄の一歩を踏み出す年にしなければならないこと、会社は労働者をしめつけ、ますますきたないやり方をするであろうが、負けずに力を合わせて皆で白日のもとに明らかにし、そのひとつひとつをなくしていこうというものである。

ビラの前半約三分の二は、主として一九七〇年の歴史的意義についての発行者の考え方――思想を表現しているものであり、前段の「会社一九七〇年革命説をとなえてさかんに反共宣伝をすれば……」という記載は、一九七〇年という年の評価を説明する上で、自分達の考えと会社の見方とを対置したにすぎない。また、ビラの中段の記載は、政府、自民党、資本家を一般的に批判し、労働者の意気を高めるための記載であり、会社を非難しているものではないことは明らかである。後段は、全体として上告人及びそのグループが永年にわたり、職場で経験してきた(「体で知つて来」た)会社の労務対策のひどさや「日本有数の大会社」であるはずの被上告人会社の労働条件の低さの実情を、自分らなりに評価し、これを従来から上告人らが慣用してきた、抽象化、一般化した言葉で表現し、批判しているが、これも労働者の団結を呼びかける意図から出た真面目なものであつて、原判決のいうように「主として従業員の企業に対する不信感を醸成することを目的」とするものでは断じてない。

原判決は本件ビラ配布の意図を右の如く「主として従業員の企業に対する不信感を醸成することを目的」とするものと評価したが、もしそうであるなら、何故、上告人らが「不信感を醸成する」必要があるのかという動機と目的の解明が不可欠である(もし、企業秩序を破壊するために不信感を醸成する必要があつたというのなら、本件の場合、それはタウトロギーであり説明にならない)ところ、原判決は、本件ビラ配布を組合活動とは認めず、またこれを政治活動であるとも言わないので、結局、原判決は、中傷誹謗のための中傷誹謗と認定したに等しい。

これは、原判決が、本件ビラ記載は組合活動としての宣伝としか考えられないのに、余りにも組合活動の範囲を狭く解したために、判決理由に齟齬をきたしてしまつたのである。

④ ビラの内容の評価

前述した如く、一般に言論活動としてのビラ作成、配布の目的は単なる事実の報道ではなく、配布者の評価と配布者のそれに対しとる態度を伝達し、それについて理解し、同調ないし批判を求めるためになされる。

そして、その場合、ビラ内容は作成者が置かれた立場ないしは依つて立つ立場からする評価を記載するわけであり、ありとあらゆる証拠を収集し終えてはじめてビラを作成するという性格のものではない。

もし、言論というものがありとあらゆる証拠に基いてしかなしえないものとすると、そこにはもはや、言論は存在しえない。

にもかかわらず、原判決は、証拠に基いてしか言論活動をなしえないとする立場をとり、しかも、その証拠というのも当事者双方が訴訟において攻撃防禦のために提出し、裁判所に採用された証拠を意味するのである。

このような全証拠の事前検討を言論活動をなすにあたり経なければならないとするのは、余りにも非常識であり、言論のもつ意味を全く知らないものというほかない。

上告人らは企業内で自らが置かれた立場から被上告人会社の労務政策に一定の評価を加えたものであり、それは何も特異なものではなく、我国の労働運動において、常用、慣用されている一定の見解、立場ないし思想である。

従つて、そもそもこれを、証拠により逐一判断しうべきことがらではない。

また、上告人は、職制ではなく一般従業員であつて、本来、使用者との関係では対立関係に立つものであり、組合員として他の組合員とともに使用者と斗争関係に立つものでもある。

それ故、上告人らのなす言論活動も右の様な立場にあるもののそれとして、法的評価を加えねばならない。

また、原判決は、電気事業の公共性を強調することにより、本件ビラ配布は電気事業労働者としての節度超えると判示している。

しかし、電気事業が公共性をもつのは企業の需要家に対する関係においてであり、企業内の労使の関係において、公共性は(争議行為等に関する一定の場合以外)問題とならない。

電気事業であれその他の一般企業であれ、労使関係は労働契約により成立するものであり、電気事業だけが、これについての特殊性をもつべきいわれはない。

原判決の右部分は、明らかに労働契約及び就業規則の解釈を誤つたものである(ここでの問題は刑事被告事件の情状判断ではなく、契約関係の法的評価の問題である)。

次に、原判決は、本件ビラが「企業秩序を乱し、または乱すおそれがあつた」とする。

しかし、そこにいう「企業秩序」とはいかなる内容のものかについて一切の説明がなく、且つ、「乱しまたは乱すおそれがあつた」というのも、現に乱したというのか単に乱すおそれにすぎなかつたのか甚だあいまいである。

それ故、本件ビラ配布により、関西電力という超大企業のどこがどうなつたというのか、「企業秩序」などといういかにも仰々しい「秩序」がどのような影響を受けたのかという点、原判決は一切理由を述べない。

しかも、原判決の如く、ビラ記載の逐一についてそれが証拠上認定しうるか否かという判断をなすのであれば、それこそ、各ビラ記載全部について、それがいかなる「企業秩序」を侵害したのかを判示せねばならない。(現実には、本件ビラにより、「企業秩序」が侵害され被上告人が損害を受けるということはありえない)。

右のとおり、原判決は「企業秩序を乱し、または乱すおそれがあつた」との判旨部分について理由不備といわねばならない。

第五、結論

以上のとおり、原判決には憲法違反、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の解釈の誤り、判決理由の齟齬及び不備があること明白であるから破毀されねばならない。

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